獣医麻酔の術前評価|ASA分類とリスク評価の基本を解説
目次
- 術前評価とは何か――「とりあえず血液検査」の先へ
- ASA 身体状態分類――リスクを共通言語にする
- 術前検査の選択と優先順位
- 術前評価から麻酔計画へ――情報を行動に変換する
- まとめ
術前評価とは何か――「とりあえず血液検査」の先へ
術前評価の本質は、検査データを集めることではなく「この患者に最適な麻酔戦略は何か」を設計することにある。麻酔前に全身状態を把握し、リスクを定量化し、それを麻酔計画に落とし込む――この一連の流れが術前評価である。
「術前に血液検査をしておけば安心」という認識は根強い。しかし血液検査は材料の一つにすぎず、それだけでは麻酔リスクの全体像はつかめない。
術前評価の3つの目的
言い換えれば、術前評価には3つのはっきりした目的がある。
術前評価の目的
- リスクの同定: 麻酔・手術に影響を与える既存の疾患・状態を洗い出す
- リスクの定量化: ASA分類などのフレームワークで共通言語化する
- 麻酔計画への反映: 薬剤選択・モニタリング強度・術後管理を事前に決定する
問診と身体検査が基盤
この3目的の出発点は、高価な検査ではなく問診(飼い主からの聴取)と身体検査である。
確認すべき基本項目は以下の通りである。
問診の必須確認項目
- 既往歴: 過去の麻酔経験(覚醒遅延・嘔吐等の有無)
- 現在の投薬: NSAIDs、ステロイド、心臓薬、抗てんかん薬 等
- 最終食事時間: 絶食の確認(犬猫では一般に6〜12時間)
- 運動耐容能: 散歩の距離・息切れの有無(心肺機能の簡易評価)
身体検査では、心音・呼吸音の聴診、粘膜色・CRT(毛細血管再充満時間)の確認、体格・栄養状態の評価を行う。いずれも検査機器なしでできる基本評価であり、どの麻酔症例でも省略してはならない。
ASA 身体状態分類――リスクを共通言語にする
問診と身体検査で集めた印象を、チームで共有できる形に翻訳するのがASA分類である。ASA(American Society of Anesthesiologists)身体状態分類は人医療で開発されたリスク評価スケールで、獣医麻酔でも広く採用されている。
ASA分類の概要
ASA 身体状態分類(獣医麻酔版)
ASA I: 健康な動物。基礎疾患なし。去勢・避妊手術など ASA II: 軽度の全身性疾患。軽度肥満、限定的な皮膚疾患など ASA III: 重度の全身性疾患。代償性心疾患、中等度貧血、制御された糖尿病など ASA IV: 生命を脅かす重度の全身性疾患。非代償性心不全、重度ショック、DIC など ASA V: 手術なしでは24時間以内の死亡が予想される。胃捻転、大量出血など E(Emergency): 上記いずれかに緊急手術であることを付記(例:ASA III-E)
ASA分類の活用法と限界
ASA分類は主観的な評価ツールで、評価者間でばらつきが出る。それでも広く使われ続けるのは、チーム内で「リスク認識を揃える」価値がばらつきを上回るからだ。
ASA分類の実践的な使い方
- 麻酔担当者交代時の「申し送りの共通言語」として使用する
- 飼い主へのインフォームドコンセントでリスクレベルを伝える際に活用する
- 麻酔記録への記載を標準化し、施設内で振り返りの基準にする
注: 注意すべき点 ASA分類は手術内容や術式の侵襲度を反映しない。ASA I の健康な犬でも、長時間手術や大量出血が予想される手術では、その要素を麻酔計画に別途組み込む必要がある。ASA分類は「患者側のリスク」だけを表すツールである。
術前検査の選択と優先順位
リスクの見当がついたら、次はそれを裏づける検査を選ぶ。ポイントは「全部やる」ではなく「必要なものを選ぶ」ことにある。
全症例に推奨される基本検査
基本検査セット
- CBC(完全血球計算): 貧血、感染、血小板減少の確認
- 血液化学検査: 肝機能(ALT, ALP)、腎機能(BUN, Cre)、血糖値、電解質
- 身体検査: 聴診、粘膜色、CRT、体重
ASA I〜II の若齢・健康な動物は、この基本セットで足りる場合が多い。
ASA III以上・高齢動物で追加を検討する検査
追加検査の選択基準
- 胸部X線: 心拡大、肺野異常の確認。心疾患の疑い、7歳以上の犬猫で推奨
- 心エコー検査: 心雑音のある症例、猫の肥大型心筋症(HCM)スクリーニング
- 凝固検査: PT/APTT。大量出血リスクのある手術、肝疾患、DIC疑い
- 尿検査: 腎機能のより正確な評価。BUN/Creが正常域でも濃縮能が低下していることがある
- 血液ガス分析: 重症症例、酸塩基平衡異常が疑われる場合
「検査を増やす=安全」ではない すべての症例にフルパネルの検査をしても、患者の安全性が必ず上がるわけではない。「この患者で何が起こり得るか」という仮説を立て、それを検証する検査を選ぶ。検査は網ではなく、狙って撃つものだ。
術前評価から麻酔計画へ――情報を行動に変換する
集めた情報は、麻酔計画という具体的な行動に変換して初めて意味を持つ。以下の4項目を事前に決めておく。
麻酔計画に反映すべき4つの要素
麻酔計画の4要素
- 前投薬の選択: 鎮静・鎮痛・抗コリン薬の組み合わせ
- 導入法: IV導入 or マスク/ボックス導入の選択
- 維持法: 吸入麻酔薬の選択、併用薬(CRI等)の計画
- モニタリング計画: 必須パラメータの優先順位、モニター機器の配置
具体例:ASAクラス別の麻酔計画の考え方
抽象論だけでは動けないので、クラス別に具体化する。
ASA I(健康な犬の去勢手術) 基本的な前投薬 + 標準的なプロトコルで対応。モニタリングはSpO2、ETCO2、心電図、体温を基本とする。
ASA III(代償性僧帽弁閉鎖不全症の犬) 心拍出量を維持する薬剤選択が鍵。ケタミン大量投与は心拍数上昇のリスクがあるため慎重に。動脈血圧の連続モニタリングを推奨。輸液速度は控えめに設定する。
【重要】 ASA IV〜V(緊急症例) 術前の安定化(輸液、電解質補正、酸素化)を可能な限り実施してから麻酔導入に移行する。ただし胃捻転(GDV)など「安定化を待つことがリスク」となる症例では、迅速導入と術中管理で対応する。
まとめ
実践のポイント
- 術前評価は「検査の実施」ではなく「リスクの同定、定量化、計画への反映」というプロセスである
- ASA分類はチーム内のリスク共有ツール。主観的な限界を理解したうえで活用する
- 検査の選択は「全部やる」ではなく、患者ごとの仮説に基づいて最適化する
術前評価を丁寧に行うことは、麻酔の安全性を高める最もコスト効率の良い投資である。
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